【月刊 つり人 11月号 vol.629】1998年11月1日発行

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【月刊 つり人 11月号 vol.629】1998年11月1日発行

1998年は29歳。それまでの生活環境だった関西エリアから関東エリアに移り住みフィールドの新規開拓として伊豆半島へ毎週通い必死に開拓し、ヒラマサ、ブリが一年を通して狙えるよう、試行錯誤していた時代。

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タックルの変化、フィールド開拓、受け入れ船宿との信頼関係…やる事は多かった。何ひとつ無かった当時の状況だっただけに、エサ釣りとの同船ではなくルアー船として提案出来る様に色々な船に乗り、船長とのコンタクトを大切にしていた時代でもあった。

この時期のこのタイミング、自分の中で一番充実していた頃だろうと思っている。

私が京都から神奈川に来たのは結婚を基とした1996年。それまでは京都にて生活しており、ずっと日本海丹後半島がマイフィールドでした。京都在宅とした生活を約10年。主に永井誠一師匠とフィッシング活動させていただいた日本海側丹後半島が中心であり、引っ越した先のフィールドが太平洋伊豆半島、と変わり、わからない事だらけであった。少しの情報を頼りに伊豆半島へ足を運んでは「釣りノート」に書き、情報を増やしていったなぁ。

でも知らないフィールドで新たな事をする、というのは実は苦では無かった。それは師匠の背をずっと見てきたから。永井誠一師匠に付いて日本海若狭湾エリアを一大ジギングフィールドにするぞ、と師匠の野望は大きかった。毎週、餌釣り船に乗り、船長を唸らせるほど釣果をあげ、そして船長が気分良くなったところで「少し疑似餌やらせて」と。

また港に行って船をみて、船長をみる。腕にロレックス、長靴がヘリーハンセン。こんな船長には間違いなく声をかけて船を出してもらっていたのをガキながらわかっていた。

一人ルアーを理解してくれ、その仲間船長に繋がり、港でジワジワ話が広まると隣港へと飛び火する。とにかく師匠は徹底的に毎週、雨だろうが何だろうが船の予約を入れては港へと通っていましたね。その姿を後ろに付いて見てきたから伊豆でも私は出来たんでしょうね。

「釣れる時期に通う」と言うのは一年を通してフィールドが確立出来ており、魚の行動がわかるデータがあるから使える言葉。私が伊豆半島に通い出した頃は全くそんなデータなど無かったから私がデータを作る事に使命感を感じたりした。

ヒラマサの情報は磯釣りアングラーから聞きました。エサ屋さんに飛び込んで、あたかもエサ釣りするかの様にヒラマサの情報を聞いて、使いもしない高価なウキを購入しては店主に聞き出したりしていましたね。

船のエサ釣りアングラーは伊豆半島周辺を狙うならイナンバや銭洲ばかり。私はそこに興味はわかず、離島なら神子元島や利島、近場なら川奈や城ヶ崎海岸あたりがロケーションもよく開拓欲を熱くさせてくれたなぁ。また真鶴の三石回りや初島といった近場もその時期から熱くなってましたね。

こうしたまだ誰かが提案していないフィールドを探してはジギングが出来るフィールドを増やす事は私ひとりでは出来なかったし、まず何よりも船を出してくれた船長の理解がなかったら今は無いだろうな。

もう操業していない船宿もあり、何処の船宿さんに感謝、とは書けないけど、ホント伊豆半島でジギング出来る様になった環境に何人もの船長に感謝しています。

このロケで乗船した船宿さんも、そのひとり。川奈沖や八幡野、城ヶ崎海岸周辺は起伏の激しい根が多く、ヒラマサが回遊しやすいだろうと思う根を毎回徹底してメタルジグを落としてはしゃくったものだ。

磯釣りアングラーからの情報はヒラマサが磯釣りでよく狙えるエリアを教えてくれたり、本誌『つり人』編集スタッフにこれまで磯釣りでロケした情報などもいただいた。こうした積み重ねを毎回やっていた時代。

1998年にヒラマサを持っている私。ずっとヒラマサ狙いだった継続力は自分でも驚くなぁ。

今年51歳。きっと10年後もヒラマサを狙っているだろうし、新しいスタイルなんかも出たりしてる期待を持ちたいなぁ。

※表紙に使われたヒラマサを持つ若い私の姿に驚きました(笑)

29歳の自分がヒラマサを持ってカラー誌面を飾っている。嬉しいね。だって完全に忘れていたワンショットだったから。

【データ】
誌名:月刊 つり人 11月号 vol.629
出版社:株式会社つり人社
編集人:若杉 隆
毎月25日発売
1998年年11月1日発行

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