【危機管理してきたのに…】無知に訴える論証はナシ。予防策失敗の末に。

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【危機管理してきたのに…】無知に訴える論証はナシ。予防策失敗の末に。

「風が吹くだけで痛いんだよっ」あれ程痛がっていた父親の姿は遠い記憶の中でしっかり覚えていました。

「お父さんが、痛いっ、痛いって…」毎年、沖縄本島にプロ野球キャンプで取材に出ていたのは私がまだ小学生高学年の頃。画家の父親は当時スポーツ新聞に挿絵とコラムを掲載されており、その取材で冬の沖縄へ毎年通っていたのだ。

今思い出せば、私も魚釣りのコラムを毎週掲載してもらう仕事をしており、日本各地に取材に向かっては写真と文章を約10年(正確には9年7ヶ月)続けてきた。父親と似てる仕事活動をしてたんだなぁ、と今になり思う。尊敬する父親は歴史連載の挿絵も長い年数されており、小学生の頃、授業で使う地元新聞紙に掲載されていた父親の挿絵は自慢であった。

「新聞に載る仕事をしろ。悪い事で絶対に載るな」常に叩き込まれた事だが、私も30代後半から40代後半まで激動の中でやり続けてきたスポーツ新聞のコラム連載。もしかしたら、我が家の長男や次男は私が父親をみる尊敬を持った心を息子達も抱いてくれているのかなっと考えてしまう。

そんな厳しかったが尊敬している父親がのたうち回る程に苦しんでいたのが「痛風」であり、それ以後の父親の食事生活もみて学んでいたと思うのですが…。

北海道行脚4日目の事。コロナ自粛から解放となり、初の出張。商い取引先様へのご挨拶と展示会、またその後は実釣取材にセミナーと久しぶりの旅であり色々と予定通りを詰め込んでいた。

旅先では出来る限り尿酸値が上がる様な食べ物に気を付けてきたつもりだ。日常でも鱈子やイクラ、かずのこなどの魚卵はまず口にしながったしレバー等もひと切れが二切れと決めていた。それも全て父親が痛がる姿が脳裏にあったから。

「痛風の恐怖」は小学生の頃からみてわかっていたこと。だから、出来るだけ避けたいと言う気持ちだけは大きかった。「遺伝もあるから、気を付けろよ。」これも父親から言われていた。とにかく無知なりにわかる範囲で気を付けていたのだ。

ガンを患い、それからは一般健康診断よりも厳しく血液検査や尿検査等を細かく行ってきた。ビールは最初の1杯で止める様に心がけ、焼酎やウイスキーを楽しむ様にして来た。8年が経過し、今でも年に2回は大学病院でしっかり検査を受けている。その時に「尿酸値が7.0になり基準値が危ないから…」と2年前位から言われてきた。

だからより一層の注意を図り飲み物、食べ物は意識して来たと思っていたのだ。しかし。無知とはホント情けない。コロナ自粛時に自宅での晩酌は変わらずハイボール。量は増えたが、食べ物には気を使っていたつもり。でも、無知だから、我流。

「ピーナツなら、痛風にならないんじゃない?」これがミスであった。調べてもいないのに、勝手な判断で晩酌はサラダとハイボールとピーナツだけの生活を続けていた。

ピーナツは木の実だから栄養あるだろっ、と勝手に思って。5日間、ピーナツを食べつつハイボールの連夜。それをしてからの北海道行脚スタート。北海道での食生活は贅沢な魚卵等は食べなかったがイカの塩辛とタコのわさび漬けは安価だったので摘んでの晩酌。帰りにコンビニへ寄り、炭水化物は食べなかったがピーナツはハイボール缶と共に。

どうやら、この間違った教科書の様な痛風食が爆発したのだろう、と判断出来る。ロケ終了後、船からキャビンに雪崩れ込み、集中した身体を休める。足が痛い。外反母趾に左足がなっているので、多分それだろうと思ったのだが、晩ご飯時にはみるみる腫れが出てきた。

ズキン、ズキン、と鈍痛が心臓の脈と合わせて足首周りを刺激する。とりあえず、手持ちのロキソニンを服用し、翌朝は足を引き摺りながらの実釣セミナー。

幸いにも、そのセミナー参加者にお医者様がいたのでセミナー後に足を診ていただいたら「土日には救急医療しかないから、今日帰りなさい」と厳しくも的確な判断で私を追い込んでくださった。びっくり。

仲間のノリさんも痛風パイセン。「平松さん、千歳まで飛ばしますよ。飛行機手配して下さい」と。ノリさん、痛風持ちで、対馬も前日発作が出て一度キャンセルしている。だから痛風の恐ろしさを知っているし、これから3日間は歩けなくなり、私を介護し切れない(笑)と当然なる判断をしてくれたのだ。だから、当日手配の当日切符で飛行機に乗り、神奈川へと戻ってきたのだ。

父親が言っていたのを思い出す。「沖縄から帰る飛行機の中で発作が出た。だから後部座席に寝かせてもらい、小牧空港から名古屋の自宅までどうやって帰ってきたかわからない(記憶にない)程辛かった、」と。

私も同じ。機内は気圧が上がる毎に左足首が腫れ上がる思い。脂汗を額に溜め、釣りの時から着替えていない潮臭いシャツを気にせず、ひたすら痛みと闘うしかない。羽田空港に機内が着いて車椅子で荷物ターンテーブルまで運んでもらう。

帰りは地元まで直通のリムジンバス。羽田空港で生きた心地はしなかったよ。父親と同じくどうやって帰って来たか、途中の記憶がない程。それほど辛かったのだ。

土曜日夜に自宅へ戻り、日曜日は徹底して安静。翌朝一番に病院で検査、受診の末「痛風ですね」と。言われて出された鎮痛剤を規則的に服用し、3日後には普通に歩ける様に。

しみじみ思う。これからは痛風と付き合いながらの生活なんだな。だから、痛風と仲良く付き合っていかなくては、また機嫌を損ねたら発作が出る。

あの痛さはもう二度と味わいたくないよ。だから成人生活病として向き合い、51歳と言う年齢に、合わせた生活をしていかなくては…と、皮肉にも発作が出た51歳の誕生日に熟反省したのでありました。

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keitanhiramatsu