【インドネシア・バリ島】クタのディスコで。一週間後にBom!!!!震えが止まらない…。
あの日、サヌールのビーチに出て生暖かい風を受けながらディナーを食べる何とも気乗りしない晩御飯で夕食を済ませた。
冷え切らないビンタンビールに、足裏がビーチの火山砂で不快感満載になり、キッチリ焼けていない海鮮BBQ。
周りをみてもカップルがお互いをウットリしながら見つめ合い、幸せ絶好調の様子を笑顔で表現してムサッ苦しくなるし、風向きが変わると魚を焼く煙が私の方に流れてきて不機嫌さがMAXとなる。
どれひとつ満足する事ないディナーにストレスは爆発し、KUTAのクラブ(当時はディスコ)で飲み直す事になった。
ヨスダイビングの日本人スタッフがアテンドしていた数人の看護婦さんも含めてKUTAへと繰り出していく。今のビーチ通りと呼ばれるメイン通りよりももっと奥に入ったところが当時は人気エリアであり、それこそマジックマッシュルームやら如何わしいものが普通に蔓延していたエリア。
「キノコ通り」だなんてのも普通にあり、サーファーは笑い呆けていたり、重く肩を鎮めている様なのもたくさん見えた。
そんなアブナイ感じがプンプンと匂う場所が当時のKUTAなのである。
ディスコは円形にダンスホールがあり、それを上部から見守る様な作りになっていた。日本人よりもオージーの方が多く、どちらかと言えば観光名所よりもローカルが好む様な場所であった。
ワンドリンク制で入り、追加のアルコールはその都度購入するスタイル。言わば、ローカルが安く入りそこで意気投合したオージーや外人と仲良くなり出会いを作る様な場所。
我々は現地フィッシングガイドと日本人滞在者、更に日本人ダイビングインストラクターの滞在者が連れて来たナースらと私の仲間達が合コンでもするスタイルで盛り上がろう、とそんなスタイルであった。
私の会社の女性部下「MIDO」さんも今回の旅を同行しており、現地フィッシングガイドと私、それに女性スタッフとダンスフロアーで微妙な照れとかき捨ての恥を気にせず、笑いながら踊りバリ島ラストナイトを楽しんだのであった。
ガラムの煙りと、明らかにガラムじゃない煙なども蔓延していた、ものすごく危なっかしいダンスフロアー。
ミュージックのボリュームがやたら大きく、ビンタンビールを握りながら暴れ踊るオージーが嫌で仕方なかったのだが、それも意識しない様に私たちなりに楽しんだのであった。
翌日の夜便で帰国し、何一つ変わらない日本の日常生活に戻った。日本の日常生活に戻って1週間と言えば、あっと言う前に過ぎていく。日々の業務に追われバリ島での楽しかった時間を忘れかけた頃にその事件は起こった。
『バリ島のディスコでテロ爆発…】
この見出しは新聞だけでなく昼の情報番組にも大きく取り上げられたのだ。
その時の内容:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AA%E5%B3%B6%E7%88%86%E5%BC%BE%E3%83%86%E3%83%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6_(2002%E5%B9%B4)
ウェキペディアでも記した通り、たくさんの被害にあったのはオーストラリア人であり、ディスコ前は騒然になっていただろう。
2002年の頃は、昼も夜も今以上に賑やかではなく日中は比較的穏やかでデンパサール方面へと走るバイパスの抜道として大量のバイクが行き来してる生活感のある場所。
それが暗くなるに連れ、海から戻ったサーファーらが夜を楽しみにやってくるのだ。
テロリスト。無差別殺戮で笑顔が絶えない街が一瞬にして恐怖のエリアに変わった。まだバリ島の楽しさが記憶から抜けられず、焼けた皮膚もインドネシアを引きずっている。
たった1週間。この1週間が何かの都合で旅行程がズレていたら…そもそもの、爆破されたディスコから逃げられていたのだろうか。
「…だったら」を考えるのは良くないだろうが、1週間という日程だったために、今でも当時の恐怖感は鮮明に覚えている。
街は活気を取り戻し、あの元気なKUTAの街に戻っていたが、夜にひとり街中を歩いていると「もしかして、今、BOM‼️が起きたらどうしよう…」そんな恐怖に駆られる時がある。
●インドネシア渡航回数 40数回
●国内通貨:ルピア