【パプアニューギニア・ラバウル】いつまで経ってもチャーター飛行機は来ないのだ…
予定されていた飛行機の到着が遅れる事など、しょっちゅうであり、あまり最初は気にする事はなかった。しかし、半日過ぎても来ないとさすがに気になってしまう。
※写真はPNGで撮影した、イメージです。
空港職員(…といっても手荷物を出し入れする位のひと)に聞いても当然「分からない」だし、旅のボスも少しずつ機嫌が悪くなって来る。だんだん沈黙する時間が長くなり、エアコンなどない荷受け所に荷物を枕にして黙って休むしかないのだ。
この日、ポートモレスビー(P.N.Gの首都)まで戻り、翌日昼の国際線で日本に戻る予定をしていた。しかし、小さなチャーター便が来ないことには、このラバウルから脱出することが出来ないのだ。
ガランとした荷受け所の小さな部屋に空港管理者が我々のことを全く気にしない様子でただずっとそこにある椅子に座っていた。
ボス、私は電話をほぼ強制的無理矢理に借りて、とりあえずポートモレスビーの仲間に連絡を付ける。どうなっているのか?と確認すると「機材故障で今直している」と調べてくれていた。
そりゃ、そうだ。約束していた時間にチャーター機は飛んで来ないし、現地で我々を待つ仲間もどうなっているのか、を心配していただろう。
※写真はPNGで撮影した、イメージです。
それなりに動いてくれていたのだが、結局この日はポートモレスビーに戻る事が出来ず、また全ての荷物をトラックに積み、ボロボロの治安の悪い村のホテルで一夜を明かす事となった。
朝から何も食べていない。大きなペットボトルが残っていたのでそれを仲間と分けて飲んだ程度。しかし身体は暑さで疲れ切っており食事どころではなく、すぐに寝て翌日に期待するしかなかったのだ。
同じ時間にラバウルの滑走路に向かう。小さな部屋の管理室に入りポートモレスビーの仲間に連絡を入れる。
「飛ぶぞ。大丈夫だ」そう返事が帰って来て、昼の日本初への便に間に合う事だけを期待して待ったのだ。小さな飛行機はラバウルまでやってきた。しかし、12時を過ぎてからの到着でその日の帰国は絶望的となったのだ。
ここからが大変だ。
ポートモレスビーで色々掛け合ったのだが、日本への直行便は一週間に1便。来週までない。ケアンズ経由でと考えたが、当日購入する国際線の片道金額というと目ん玉が飛び出すほどの額。といっても帰らなくてはどうしようもない。
※写真はPNGで撮影した、イメージです。
シンガポール経由がきちんと経路付きされたのはそのずっと後で、当時はその頭もなかった。とにかくオーストラリアが一番近く、オーストラリアが一番日本への便が多いという事だけしか知識がなかったのだ。
仕方がない。全員チケットを各々購入するぞ!と意気込んでポートモレスビーで一泊した翌日に空港で動き出したのだが、今度はオーストラリアに入国するビザがないからチケットは売れない。と言い始めたのだ。
おいおい、トランジットだぞ、と伝えても入国は入国。ダメだっ!となり、今度はポートモレスビーで途方に暮れることとなってしまった。
みんな疲れ果てている。金銭的にも限界になっているし、全員が苛立ってまともな会話も難しい状況だ。
私は無い知恵を絞り、父親に相談することにした。国際コレクトコールをして実家に電話をする。そして父親に繋がって諸上を話すと「30分してら掛け直してこい」と短く言われ、その様に従った。
30分後、再度連絡をする。
「外務省の●◎●サンにすぐに渡航ビザを発券してもらった。人数分、出てるから大丈夫だっ。安心しろ。」この時ばかりは本当に感謝した。
あれほど全く我々の言う事など聞いてくれなかった国際線カウンターの人も、それから入国管理する役員も父親が手配してくれたビザ1枚でとんでもなくV.I.P扱いになったのだ。
空港中の従業員の態度が見事に変わり、護送まで空港職員が出て来てしまう始末…。とんでもない雰囲気になったのだ。
NZ在住の通訳件アングラーの方はそのビザを見て「慶ちゃん、恐ろしいビザだよっ。」と教えてくれる。ここで名前を出す事は出来ないが、日本国民が全員知っている人からの指示での発券ビザであり、当然そりゃ一撃でどこにでも渡航出来てしまう内容のもの。
※写真はPNGで撮影した、イメージです。
コツコツと48万円貯めてP.N.Gに旅した20代半ば。ギリッギリの予算で旅をしてきたが、最後の最後に父親のチカラの偉大さを思い知らされ、今でも絶対に忘れられない父親への【感謝】のひとつとなっているのである。
●パプアニューギニア(P.N.G)渡航回数 7回
●国内通貨:キナ